姉は、気にしない(完成版)
── 小説で学ぶ、人間関係と心理学 第2話
私は、姉が嫌いだった。
顔は私の方がよかった。それは間違いない。鏡を見るたびに確認してきたから、間違いない。ただ、背は姉の方が高かった。成績も姉の方がよかったが、実際はそれほど私と変わらないと、私は思っていた。先生の採点が甘いだけだと思っていた。
姉はおっとりしていて、細かいことを気にしないタイプだった。私は細かいことが気になるタイプだった。姉が気にしないものを、私が代わりに全部気にして生きてきた。損な役回りだと、ずっと思っていた。
そして、姉と私は、同じ人を好きになった。
好きになった、というより──気がついたら、二人とも同じ男と関係があった。私にしてみれば、彼はいい男だった。付き合い始めてしばらくして、姉との過去を知った。私は、気にならなかった。気にならないはずだった。
けれど、彼の目が、時々どこか遠くを見ることがあった。私はその視線の先に、いつも姉がいる気がした。
だから私は、姉の悪口を言うようになった。
最近のことではない。かなり前からだ。親戚に、近所に、共通の知人に。少しずつ、少しずつ。嘘は言わない。ただ、事実の順番を入れ替え、余計な一言を足すだけでいい。「お姉ちゃんは昔からああいうところがあってね」──妹の私が言うことは、面白いほど信用された。身内の証言ほど、効く毒はない。
姉の評判が悪くなるように。姉が孤立するように。私は何年もかけて、丁寧に仕込んだ。
けれど、姉は気にしなかった。
私と違って、姉は不思議と人気があった。何もしていないのに、誰からも声をかけられる。親戚の集まりがあると、いつも姉の周りに人が集まった。私は蚊帳の外だった。仕込んだはずの毒が、なぜあの輪の中で効かないのか、私にはわからなかった。
あるとき、法事があった。姉は派手な外車に乗って現れた。
親戚たちは、そのとき初めて、姉が想像以上に成功していることを知った。駐車場がざわついた。私は許せなかった。隣に立つ夫も、車から降りる姉を、じっと見ていた。
「そんな車、新車で買えるわけがないでしょう」
私はわざと、親戚に聞こえる声で言った。中古を見栄で乗り回している──そういう空気を作るつもりだった。
姉は、落ち着いた声で答えた。
「新車よ」
それだけだった。言い返しもしない、笑いもしない。ただの事実として、静かに置かれた一言。恥をかいたのは、私の方だった。
──思えば、姉は昔から、そうだった。
実家にいた頃、姉はなにげに太っていた。理由を知っているのは私だけだ。姉の好きなロールパンに、私がこっそり油を塗っていたからだ。姉だけが食べるパンだったから、問題なかった。姉は面白いように太った。ダイエットしてもすぐ戻る。本人も不思議だっただろう。
ただ、太っても姉は人気があった。「あのふっくらした感じがいい」とまで言う人がいた。私はそれも気に入らなかった。
やがて姉は家を出た。すると、姉はするすると細くなっていった。誰もが、姉をきれいだと言うようになった。私の油から離れただけなのに、世間はそれを「自己管理」と呼んだ。
私は悔しかった。だから、次の手を考えた。
両親に、死亡保険に入れてほしいと頼んだのだ。私を入れてほしいと言えば、親は公平にしたがるから、遠方にいる姉の分も出すだろう──読み通りだった。姉も私も、死亡保険に入った。受取の輪の中に、私もいる。
もし、姉が死ねば。
私は、姉が実家に帰ってくる日を、楽しみに待つようになった。姉が来るたび、食べ物に細工をした。眠くなるものを、ほんの少し。すぐにどうこうなるものじゃない。ただ、運転する姉の、長い帰り道を思って混ぜた。
その晩、私は電話を待った。事故の知らせでも、体調を崩したという連絡でもいい。
けれど、何の電話も来なかった。
私はそんなことを、四回ほど繰り返した。
四回とも、電話は鳴らなかった。そして五回目は、来なかった。姉が、実家に帰ってこなくなったからだ。
母によれば、「忙しくなるから」と笑っていたそうだ。それきり、盆も正月も、姉は寄り付かなくなった。少し遅れて、姉が自分の死亡保険を解約したことを知った。「自分のことは自分でやるから」と、親にお金を返したらしい。
──思い出したのは、ずっと後になってからだ。
姉は、極度の不眠症だった。仕事で鍛えられた人だった。「一週間くらい、ほとんど眠れない週もあるのよ」と、昔、笑いながら言っていたのを覚えている。数日眠れないくらいのことは、気にしない人だった。眠らせようとした私の細工は、眠れないことに慣れきった姉には、最初から届いていなかったのかもしれない。
姉は、眠れないことすら、気にしない人だったのだ。
いや──それだけでは、なかった。
最後に帰ってきたあの日、姉は私の出したお茶に、口をつけていなかった。「胃の調子が悪くて」と笑って、料理もほとんど残した。その前の帰省も、そうだった気がする。その前も。
いつからだ。いつから姉は、実家で出されたものを、食べていなかった?
私には優しかった姉が、何かがおかしいと、気づいたらしかった。何に気づいたのか、どこまで気づいたのか、姉は誰にも言わなかった。私を問い詰めることも、親に告げることもしなかった。ただ、静かに、私の届く場所から自分を引き上げただけだった。
友人たちと疎遠になっていた姉は──疎遠にさせたのは私だが──あるとき取引先から、妹が悪口を言いふらしていると聞かされたらしい。それも人づてに知った。姉からは、何の連絡もなかった。責める電話の一本すら、来なかった。
でも、仕方がない。私はそう思うことにした。
やがて、姉が結婚したことを知った。
式には呼ばれなかった。写真だけ、親のところで見た。姉の夫は、私の夫より、ずっと男前だった。やさしくて、料理もうまいらしい。母がうれしそうに話すのを、私は黙って聞いていた。
完全に負けたことを、そのとき知った。
せっかく、姉の男を奪ったと思ったのに──あれは、違ったのだろう。私は何も奪っていなかった。姉が置いていったものを、拾っただけだった。
そして私は、夫の浮気を知った。
私以外の女とも、多数の関係があったらしい。知ったきっかけは、皮肉なことに、私自身の体だった。体調を崩して受けた検査で、夫から性感染症をうつされていたことがわかったのだ。診察室で、私は平静を装うのに必死だった。それが報いなのかもしれない、と思う夜がある。私が奪ったと思っていたものは、最初から、私だけのものではなかったのだ。
私は真面目に働いている。だが最近、仕事がうまくいかない。誰にも言えない。会社をリストラされたら、私は夫にも捨てられるかもしれない。
そして、時々思い出す。私にも、死亡保険がかかっていることを。
自分で言い出したことだから、今さら解約できない。「なぜ解約するの?」と聞かれて、答えられる理由がない。受取人の欄には、浮気性の夫の名前がある。私が姉に仕掛けた罠と、まったく同じ形の罠の中に、いつのまにか私が入っている。夫がそのことをどう思っているのか、私は怖くて確かめられない。
鏡を見る。
私は、必要以上に年をとった。姉は少ししか白髪がないのに、私は真っ白になり、顔はたれてしまった。以前の面影はない。どこにでもいる、くたびれた中年の女だ。自分でも思う。取引先にも言われる。「ずいぶんお老けになりましたね」と。
精神的なものなのかは、わからない。怒りを抱えて、不安を抱えて、悪口を言い回っていた報いなのだろうか。
だが、何の改善も、今さらできない。
夫が機嫌のいい夜に、たまに味噌汁を作ることがある。その椀を前に、私は一瞬、箸を止める。
──まさかね。
そう思いながら、口をつける。毎回、そう思いながら、口をつける。
心の安定は、もう、どこにもないのだ。
(了)
この物語から学ぶこと ── ヒロ先生の解説
1. 妬みは、相手ではなく自分を蝕みます。 妹が何年も仕掛けた攻撃は、姉をほとんど傷つけませんでした。代わりに、怒りと不安を抱え続けた妹自身の心と体が先に壊れていきます。白髪、老け顔、眠れない夜──慢性的な敵意やストレスが心身をすり減らすことは、心理学でもよく知られています。誰かを憎み続ける生活は、それ自体がもう罰なのです。
2. 「身内だから言うんだけど」は、いつか発信源に返ってきます。 身内の証言は信用されやすい分、矛盾が露見したときの反動も大きくなります。この物語では、姉は友人からではなく取引先から真実を知りました。悪評は、流した本人が管理できない経路で広がり、管理できない経路で返ってくるのです。
3. 姉の対処法に注目してください──「気づいて、争わず、離れる」。 姉は問い詰めず、告発せず、証明しようともしませんでした。違和感に気づいた時点で、実家で出されたものを口にせず、保険を自分で解約し、静かに距離を取っただけです。攻撃してくる相手と同じ土俵で戦えば、消耗するのは自分です。第1話の彼女と同じく、静かに離れた人が、最後に自分の人生を守ります。
4. 自分が仕掛けた仕組みは、いつか自分に向きます。 妹が姉のために用意した保険という罠は、姉が降りた後、妹自身にかかったまま残りました。悪意で作った仕組みは、作った本人の手を離れて動き続けます。誰かを陥れる設計は、最後に自分の設計図になるのです。
5. 「報い」の正体は、超自然的な力ではなく、自分の選択の積み重ねです。 妹は自分の不幸を「報い」と呼びますが、よく見れば、悪評を流す・罠を仕掛ける・張り合いのために結婚する──そのひとつひとつの選択が、彼女の牢屋を組み立てています。人と比べて生きることをやめられない限り、どれだけ手に入れても心の安定は訪れません。これが、この物語のいちばん深い教訓です。
そしてもし、あなたが「姉」の側なら──理由のわからない敵意、特定の場所でだけ起こる体調の変化、急に持ち上がるお金の話。違和感に気づいたら、記録して、争わず、静かに離れてください。それがあなたの人生を守る、いちばん確実な方法です。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
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