小説で学ぶ、人間関係と心理学
第5話「十四金」
俺は、顔がいい。
これは自慢ではなく、事実の確認だ。歯医者としての腕の話ではない。顔の話だ。
患者に誘われることは、珍しくなかった。診療が終わってから連絡先を渡してくる女もいたし、待合室でわざわざ着替えてくる女もいた。俺はそれを、当然のこととして受け取っていた。二十代の頃から、そういう世界に住んでいたから。
顔は、俺の資本だった。
——資本というのは、減るものだと、あの頃の俺は知らなかった。
彼女は、長いつき合いの患者だった。
金を持っている女だった。指にも、耳にも、首にも、いつも何かが光っていた。趣味なのだろう。診療台に横になると、それが天井の灯りを反射して、俺の目に入る。
昔は、俺のことが好きなんじゃないかと思っていた。
たぶん、勘違いではなかったと思う。あの頃は、たしかに彼女の目に、そういう色があった。
でも、ある時期から、なくなった。
——歳を取ると、魅力が減るのか?
彼女は俺を、ただの歯医者として見るようになった。予約して、来て、治療を受けて、金を払って、帰る。それだけ。世間話はする。でも、そこに何もない。
俺は、そのことを、認めたくなかった。
いや、誘えば来る、と思っていた。まだ俺は、そういう位置にいるはずだ、と。
俺には、金が要った。
この歯科医院は、借金で開けた。数字を見るのが怖い夜がある。それに、この歳になれば、マンションの一つも欲しい。俺の同期は、みんな持っている。
そして目の前には、宝石を身につけた女が、毎回横になりに来る。
——一晩、泊まりに来させればいい。
それだけで済む話だ、と思った。あれだけ持っているのだ。一つ二つ減ったところで、すぐには気づかない。俺は儲かる。誰も損をしない。
そういう計算が、頭の中で完成するのに、三十秒もかからなかった。
自分が何を考えたのか、その意味を考えることは、しなかった。考えたら、戻れなくなる場所に自分が立っていることを、認めなければならないから。
一度目は、あっさりだった。
「今晩、泊まっていかない?」
彼女は、俺の顔を見た。
——なに言ってんの、この人。
そういう顔だった。そして「帰るよ」と言って、普通に帰った。
普通に、帰ったのだ。
怒りもしない。笑いもしない。気まずくもならない。翌月、彼女はまた予約を取って、何事もなかったように診療台に横になった。
俺のほうが、悔しかった。
彼女は、何も気にしていなかった。俺の誘いは、彼女の中で、出来事にすらなっていなかった。
二度目のチャンスは、向こうからやってきた。
彼女が、泥棒に入られたと言うのだ。
これだ、と思った。
泥棒に入られた家の人間なら——何かがなくなっても、俺だとは思わないだろう。あれもあの時か、と考えるだろう。完璧じゃないか。
「そんな家に帰るの、怖くない? 今晩は、うちに」
彼女は、また断った。
「動物たちがいるから、帰らなきゃ」
——それが、理由だった。
犬と猫が待っているから。それだけの理由で、俺は断られた。この顔で、誘っているのに。
俺は、ペットに負けたのだ。
俺の全人生の資本が、犬と猫より下に置かれた。しかも彼女は、そのことに気づいてすらいない。彼女にとっては、俺を選ぶか動物を選ぶかという勝負ですらなかった。ただ、家に帰る用事があった。それだけだ。
俺は、この女を許せなくなった。
計画を、変えた。
宝石を盗るのは、もういい。もっと確実で、もっと合法的に見えて、もっと長く続く方法がある。
俺は保険診療を避けたかった。あれは記録が残るし、金にならない。だから彼女にこう言った。
「保険を使うような治療は、あなたからはお金を取りませんよ。無料でいい」
無料と言われて、保険を使う人間はいない。当然、その治療は保険の外に出る。記録は、残らない。
そして、こう付け足した。
「その代わり、何かプレゼントでもいただければ」
彼女は「悪いから」と言った。
俺は、知っていた。この女は、必ず、良いものを持ってくる。何かをもらったら、必ず釣り合う以上を返してくる。そういう女だ。俺はその性質を、値段のついた蛇口として使うことにした。
やがて彼女が、ゴールドのインレーを希望した。
歯に入れる、金の詰め物だ。金属アレルギーも出にくく、体になじむ。悪い選択ではない。
俺は、相場より安い金額を提示した。
彼女は喜んだ。
そして俺は、その金を、十八金では作らなかった。
十四金。あるいは、それ以下。
理由は、単純だ。質の悪い金は、なじまない。すき間ができる。そこから虫歯になる。虫歯になれば、彼女はまた俺のところに来る。俺はまた治療して、また金を取る。
彼女は、俺の年金になるはずだった。
俺は、彼女の口の中に、いくつも、いくつも、それを入れた。
診療台の上で、彼女は目を閉じていた。俺の腕を信用して、口を開けていた。あの女が、俺に対して唯一持っていた信頼が、それだった。
俺はそこに、偽物を詰めた。
誤算は、俺自身が仕込んだものだった。
安く作ったものは、合わない。
かみ合わせが、悪いのだ。当たり前だ。手をかけていないのだから。
彼女は、その違和感を、放置しなかった。
たったそれだけのことだ。噛んだときに、なんとなくおかしい。それを「こんなものか」と思わずに、別の歯医者に、確かめに行った。
その医院で、レントゲンを撮られた。
——虫歯が、写った。
俺が入れた金の下で、俺が計画したとおりに、虫歯が育っていた。俺が「また来させるため」に仕込んだ設計は、正確に機能していた。ただ一つ、彼女が俺のところに戻ってこなかっただけだ。
外した金は、彼女の手元に残った。
そして彼女は、それを質屋に持っていった。
金は、質屋に持ち込めば、鑑定してくれる。ただそれだけのことだ。あの女は、金の好きな女だった。宝石を身につけて生きてきた女だ。手元に金の塊が落ちてきたら、価値を確かめに行く。それは、あの女にとって、呼吸のようなものだった。
俺は、そんなことも計算に入れていなかった。
十八金と、聞かされていたはずのもの。
鑑定の結果は、そうではなかった。
一つではない。彼女の口の中には、いくつも、いくつも入っていた。
彼女は、静かだった。
怒鳴り込んでこなかった。電話もなかった。
代わりに、内容証明が届いた。
そして——保健所に、連絡が行った。
監査が入った。指導が入った。
俺は、書類を出し、説明を求められ、頭を下げた。彼女は、俺の前に一度も現れなかった。ただ、正しい窓口に、正しい順序で、事実を届けただけだった。
あの女は、最後まで、俺と戦わなかった。
俺の相手をしてくれる価値さえ、俺にはなかったのだ。
彼女が、まあまあ名の知れたインフルエンサーだと知ったのは、そのあとだ。
俺がやっていたことは、広がった。
そして、それだけでは終わらなかった。俺が患者を誘っていたという話が、どこからか出てきた。一つではなかった。俺が忘れていた分も、覚えていない分も、全部出てきた。
患者が、減り始めた。
いま、この医院には、最新の機器がない。道具も最低ランクのものだ。ジルコニアを削ることさえできない設備だから、できる治療にも限りがある。金がないから設備が入らず、設備がないから患者が来ず、患者が来ないから金がない。
回らなくなった歯車は、そういうふうに回る。
マンションは、手に入れた。
親の家を売らせた。足りない分は、いま結婚している女とのローンで組んだ。
俺は、金のために結婚した。
そして、その女は、俺の顔を心配している。浮気していないか、いつも探っている。どこで誰と会っていたのか、なぜ帰りが遅いのか、あの患者は誰なのか。
うるさい、と思う。
だが、離婚はできない。ローンがある。この部屋は、俺一人では一円も払えない。親もうるさい。家を売らせたのだから、当然だ。嫁もうるさい。金のために結婚したのだから、当然だ。
そこへ、予定納税が来る。
去年の分の税金を、今年の稼ぎから前払いさせられる仕組みだ。稼ぎが落ちても、待ってはくれない。患者が減っているのに、去年の売上を基準にした金額が、決まった月に、決まった額だけ、口座から消えていく。
そして俺は、その年に、車を買った。
顔のいい歯医者が、みすぼらしい車には乗れない。俺の資本を守るための、必要な投資のはずだった。
いま、それが首を絞めている。
ローンと、予定納税と、車の支払いが、毎月同じ場所で交差する。
こんな話は、誰にもできない。
医院を持ち、マンションを持ち、いい車に乗っている男が、金がないとは言えない。俺が二十年かけて作った「そう見える」という財産が、いま、俺の口を塞いでいる。
外側を保つために、内側を全部売った。
そういうことだった。
時々、あの女のことを考える。
彼女は、たぶんいまも、ペットと暮らしているのだろう。俺のことなど、思い出しもせずに。
あの夜、彼女が俺より動物を選んだのは、俺を軽んじたからではなかったのだと、いまなら分かる。
彼女には、帰る場所があった。
俺にはなかった。だから俺は、あの女の宝石を盗ろうとした。あの女の信頼を、口の中で偽物に替えた。
俺が本当に欲しかったのは、宝石でも金でもなかったのかもしれない。
夜中に、待っていてくれる誰かがいる——そういう人生のほうだった。
俺は、顔がいい。
外側は、金色に光っている。
中身が何でできているかは、削ってみるまで、誰にも分からない。
——俺自身が、十四金だった。
(第5話・了)
この物語から学べること
「違和感」を放置しないでください。それが、あなたを守ります。
- 物語の彼女を救ったのは、勇気でも賢さでもありません。噛んだときの、ほんの少しの違和感を「こんなものか」で済ませなかった、それだけです。体は、頭より先に気づきます。おかしいと感じたら、確かめてください。
- セカンドオピニオンは、裏切りではありません。 長いつき合いの専門家ほど、一度、外の目を入れてください。あなたを大事にする人は、それを嫌がりません。嫌がる人がいたら、それが答えです。
- 「あなたからはお金を取りません」「その代わりプレゼントで」——正規の取引を避けたがる人には、必ず理由があります。 。無料や特別扱いは、たいてい、もっと高くつきます。
- 自由診療では、使用素材の証明書や純度を確認してください。 金属の詰め物なら、外れたものを質屋に持ち込めば鑑定してもらえます。「相場より安い」には、必ず理由があります。安さの理由を説明できない専門家からは、離れてください。
- 断ることに、罪悪感を持たないでください。 物語の彼女が守られたのは、二回とも、普通に断って普通に帰ったからです。「悪いかな」と一度でも思って応じていたら、話は全く違うものになっていました。あなたの「普通の断り方」は、そういう人にとっては完敗です。
- そして、戦わないでください。 彼女は怒鳴り込みませんでした。内容証明を送り、保健所に事実を届けただけです。正しい窓口に、正しい順序で。感情でぶつかるより、それが最も強く、最も安全です。
- 偽物は、時間が暴きます。外側だけを磨いてきた人は、外側が減り始めたとき、何も残りません。あなたが手を汚す必要は、ありません。
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