あの男は、気にしない
── 小説で学ぶ、人間関係と心理学 第3話
俺が経営する塾は、地方ではそれなりに有名だった。
看板があった。歴史があった。この地域で塾といえばうちだと、誰もが認めていた。俺はその上に座っていた。座り心地は、悪くなかった。
そこへ、あの男が開業した。
調べて、俺は正直、焦った。とんでもない学歴だった。大手企業の内定も断って、「ペットと一緒に好きなように働きたいから」という理由だけで、この地方に帰ってきた男だという。意味がわからなかった。あんな経歴があれば、東京でいくらでも稼げるだろうに。何が「ペットと一緒に好きなように」だ。
だが、焦りはすぐに算段に変わった。俺には、いつもの手があった。
電話をかけるのだ。
新しい塾は、最初は生徒が埋まらない。教室は空いている。金は出ていく。そこに「うちが借りてやる」と持ちかければ、たいてい飛びつく。そうやって教室ごと抱き込んで、自分の配下に納める。この手は、割と使えた。東大だろうと、京大だろうと、一度部下にしてしまえば、言うことを聞くようになる。人は、生活を握られると素直になる。
俺はまず、空いている教室があれば貸してほしいと電話をかけた。
断られた。
生意気だと思った。教室が空いているのは知っていた。喉から手が出るほど金が欲しいはずだと思っていた。それなのに、断りやがった。
次に、そちらの地区に出店することになったから、支店の塾長にならないかと電話をかけた。
「もう塾長なので」と、断られた。
なんだこの男は。うちが大手だということを、認識していないのか。
その後、別の系列の名前を使って、大きな予備校で教える気はないかと、もう一度かけた。声を変え、名前を変え、条件を上げた。
それでも、断られた。
あの男は、俺の用意したどの椅子にも、座らなかった。俺が差し出すものに、価値を感じていなかった。それが何より、腹が立った。
──だから、次は圧力にした。
本部の偉い人に頼んで、手を回した。新聞広告だ。あの男はいつも数社と契約していたが、そのすべてを取りやめさせた。うちはその補填で、広告会社に結構な金を払った。損をしてでも、潰す価値があると思った。
塾が一斉に生徒を募集する、あの季節。あの男の広告だけが、紙面から消えた。
それでも、あの男は普通にしていた。いつも通り授業をして、いつも通り生徒を出していた。うちが払った補填金の額を思い出して、俺は腹が立った。俺は金を捨てたのに、この男は何も失っていない。
──後で知ったことだが、あの男は、あの時点で気づいていた。
当たり前だ。何年も付き合ってきた広告会社が、示し合わせたように、同じ月に揃って断ってきたのだから。しかも、どこも理由を言わない。「社内の事情で」「今期は枠が取れず」。同じ言い訳が、三社から返ってくる。偶然が三つ重なれば、それはもう偶然ではない。
あの男は、騒がなかった。抗議も、詰め寄りもしなかった。
──それでも、俺は諦めなかった。
次は、学校を使うことにした。
長い付き合いの先生方がいる。うちの塾は歴史があるから、そういう縁は方々にあった。頼んで、教室でわざわざ言ってもらった。「あの塾に通っている人は少ないから、行く価値はない」と。
生徒に直接、そう言ってもらう。これほど効く広告はない。子供は、先生の言うことを聞くものだからだ。
さらに頼んだ。塾に通っている生徒には、大手予備校で無料の授業が受けられると声をかけてほしい、と。スカウトだ。ただで受けられるものを、断る子供はいない。そう思っていた。
だが、生徒たちは、言うことを聞かなかった。
一人も動かなかった、というわけではない。ほとんど、動かなかったのだ。無料だと言われても、先生に勧められても、あの男の教室に通い続けた。
理由は、後から考えれば、単純だった。
E判定から、A判定まで持って行かれた生徒は、動かないのだ。
無理だと言われた学校に、手が届くところまで連れて行かれた子供が、「無料だから」という理由で、その手を離すわけがない。俺は、無料という言葉に価値があると思っていた。あの子たちにとっては、自分の点数の方が、はるかに重かった。
俺にとって、生徒は「取り合う数」だった。
あの男にとって、生徒は「成績を上げる相手」だった。
それだけの違いだった。それだけの違いが、決定的だった。
そして、しばらくして、学校から連絡が来た。
保護者から苦情が来た、と。
「なぜ先生が、特定の塾の悪口を言うのか」「なぜ生徒を、別の予備校に勧誘するのか」。当然の疑問だった。当然すぎて、俺は返す言葉がなかった。先生方は、手を引いた。
俺は、そのとき初めて、少しだけ怖くなった。
子供の方が、大人より、誰が本物かを知っていたのだ。
あの男の学歴と実績は、俺たちが思っていたより、ずっと重かったらしい。噂で削れる厚さではなかった。悪口は、実績の前では、ただの雑音だった。
俺たちには、もう何も出来ない──そんな気分になった。
気に入らなかった。だから、俺は──あの男が、かわいがっている犬に、手を出した。
一度で終わらせる必要はなかった。少しずつ、時間をかけて、あの犬の調子を崩していけばいい。誰にも気づかれない。獣医にもわからない。ただ「体の弱い犬」になっていくだけだ。
犬は、痩せていった。
あの男が、心配そうに動物病院へ連れて行くのを、俺は遠くから見ていた。俺の作った病気を、あの男が金を払って治そうとしている。それが、たまらなく愉快だった。
その頃の俺は、たぶん、いちばん機嫌がよかった。
だが、獣医が、首をかしげたらしい。
「おかしい」と言ったそうだ。「この犬は健康なはずだ、血液検査では異常はなかった。環境に何かないか」、と。あの男は何も答えず、ただ、その言葉を持ち帰った。
──俺は、そこで止めるべきだった。
止められなかった。愉快さには、際限がないのだ。
そして、ある日、犬が倒れた。
しかし、犬は、生きた。
三日間の点滴で持ち直したと、後から聞いた。今も庭を走り回っているらしい。
俺は何を得たのか。
何も得なかった。むしろ、逆だった。あの日から、あの男の塾には、防犯カメラがついた。一台ではない。複数。門にも、駐車場にも、庭にも。俺はそれを、車の中から見た。
俺たちは、あいつに耐性をつけただけだった。
そのとき、俺は理解すべきだった。あの男は、気づいていた。何も言わないだけで、最初から全部、気づいていたのだと。
だが、俺はまだ勝てると思っていた。だから、最後の電話をかけた。
「頼みたい仕事があるから、うちに来い」
そして、言った。言ってしまった。
「言うことを聞かないなら、新聞広告を出させないようにするぞ。うちの言いなりになれ」
あの男は、静かに答えた。
「聞きません」
それだけだった。電話は、切れた。
──俺は知らなかった。
あの言葉は、何もないところに落ちたのではなかった。あの男の手元には、もう一冊のファイルがあった。断りの書面。日付。取引先が漏らした話。そこに足りなかったのは、それらを一本につなぐ動機だけだった。
「言いなりになれ」
俺は、その最後の一枚を、自分の口で届けたのだ。
あの男は、その電話の内容を、周りに話した。誰にも隠さなかった。取引先に。同業者に。保護者に。講師に。そして、自分の塾でアルバイトをしている学生たちに。
騒がず、告発もせず、ただ「こういう電話がありました」と、事実だけを、置いていった。
うちの従業員は、もともと知っていた。
俺は、社内で隠していなかったからだ。電話をかけるところを、みんなが見ていた。広告を止めさせた話を、俺は手柄のように話していた。待ち伏せの指示も、社内では普通の業務だった。俺にとっては日常で、部下たちは──ずっと、目撃していた。
だから、噂が流れ始めたとき、うちの誰も、否定できなかった。「そんなことはしていない」と言える人間が、社内に一人もいなかった。
バイトの学生にも、知られた。学生は、口が軽い。いや──口が軽いのではない。彼らには、俺を守る理由が、最初から一つもなかっただけだ。
噂は、あっという間だった。
「あの塾は、汚い」
たったそれだけの言葉が、俺が築いてきた長年の看板を、内側から食った。俺たちは、簡単に悪者になった。歴史がある分、落ちるときの音は大きかった。
気づけば、教室の半分が空いていた
それでも俺は諦めなかった。あの男が高級路線の塾を構想しているという情報を掴んだので、先回りした。同じコンセプトで、高額な設備を入れた。金をかければ勝てると思った。金しか、俺の手には残っていなかった。
そして──新型コロナが来た。
計画は、丸ごと潰れた。
入れたばかりの豪華な設備に、誰も来ない。あの男の塾のバイトを待ち伏せして、味方に引き入れ、内側からいたずらするよう仕込んでいた手も、使えなくなった。人と人が会えないのだから、俺の得意技は、全部使えなくなった。
俺の武器は、全部「人に接触すること」だったのだと、そのとき知った。
あの男は、オンラインに切り替えた。
そして、あの男は、それまで義理で雇い続けていた余分な講師を、大胆に切った。俺には、できないことだった。俺は人を抱えることでしか、偉くなれなかったから。
身軽になったあの男は、今、自由気ままにやっているらしい。
そして、広告はインターネットに移った。
新聞なら、握り潰せた。金と顔で、紙面は止められた。だがインターネットは、止められない。俺が長年かけて築いた「顔の効く範囲」は、そこには存在していなかった。俺の力は、紙の上にしかなかったのだ。
塾の生徒は減った。
家のローンが、残っている。会社は、もう危ない。
これから、どうすればいい。
考えても、考えても、答えが出ない。頭に浮かぶのは、あの男が電話口で言った、たった五文字だけだ。
「聞きません」
──結局、会社は潰れた。
評判が落ちて、生徒が消えて、看板だけが最後まで残った。撤去の日、業者が看板を下ろすのを、俺は下から見ていた。長年、俺を偉くしてくれた看板だった。
俺は、あの男に一度も、勝てなかった。
いや。
思えば、あの男は、一度も俺と戦っていなかった。
(了)
この物語から学ぶこと ── ヒロ先生の解説
1. 「席を用意してくる人」に注意してください。 この男が最初にしたのは、攻撃ではなく「提案」でした。教室を借りたい。塾長にならないか。予備校で教えないか。一見、好条件です。でも本当の目的は、相手を自分の配下に置くことでした。生活を握れば、人は逆らわなくなる──それを知っている人がいます。あなたが独立や独自路線を選んだとき、親切な顔で椅子を差し出してくる人がいたら、その椅子が誰の部屋にあるのかを、必ず確認してください。
2. 断り続けられる人は、強い。 この物語の男が最後まで勝てなかった理由は、シンプルです。標的が、一度も条件を飲まなかったから。名前を変え、条件を上げ、三度かかってきた電話に、三度とも「いいえ」と答えました。交渉の余地を見せないことは、冷たさではなく、防御です。一度でも受ければ、次からは「話が通じる相手」として扱われます。
3. 「偶然が三つ重なったら、それは偶然ではありません」。 長年の取引先が、同じ時期に、揃って曖昧な理由で断ってくる。妙な探りの電話が入る。ペットが、原因不明の不調を繰り返す。ひとつなら偶然です。三つ重なったら、構造です。とくに、獣医が「原因がわからない」「環境に何かないか」と言ったときは、その言葉を軽く扱わないでください。この物語で標的を救ったのは、その一言でした。標的はここで騒がず、電話ではなく書面で理由を尋ね、歯切れの悪い返事をすべて保存し、日付をつけて残しました。カメラを設置したのも、報復のためではなく記録のためです。証拠は、争うためだけのものではありません。持っているだけで、相手の手が止まります。そして加害者は、たいてい自分から最後のピースを届けに来ます──この物語の「言いなりになれ」という電話のように。記録する人は、静かに強いのです。
4. 加害は、必ず内部から漏れます。 この男は、社内で隠していませんでした。手柄として話していたからです。組織ぐるみの嫌がらせは、必ず内側に目撃者を作ります。そして目撃者には、加害者を守る理由がありません──特に、いつでも辞められるアルバイトには。標的は告発しませんでした。ただ「こういう電話がありました」と事実を置いただけです。それで十分でした。悪評は、事実を知る人が多いほど、加害者側へ返っていきます。あなたが受けている嫌がらせも、たいてい、相手の身内がすでに知っています。
5. 実績は、悪口では削れません。 この男は、学校の先生という「権威」まで動員しました。教室で悪く言わせ、無料授業でスカウトまでさせた。それでも生徒は動きませんでした。E判定からA判定まで連れて行かれた子は、「無料だから」という理由で、その手を離さないからです。やがて保護者から苦情が出て、先生方は手を引きました。子供の方が、大人より、誰が本物かを知っていたのです。噂で崩せるのは、噂で建てたものだけです。本当の実績を積んでいる人は、悪口の射程の外にいます。だからこそ──何を言われても、あなたは自分の仕事の質を上げることだけを続けてください。それが最も攻撃されにくい場所です。
6. 妨害できるのは、相手が「その土俵にいる間」だけです。 新聞広告は握り潰せました。バイトの待ち伏せもできました。でも、時代が変わってオンラインになった瞬間、この男の武器は全部消えました。彼の力は「紙面」と「接触」の上にしかなかったからです。逆に言えば、身軽な人・変化できる人は、妨害の網から自然に抜けていきます。抱えるものを減らしておくことは、それ自体が防御になります。
7. そして──「戦わない」が、最強の戦い方です。 標的は、言い返しませんでした。訴えませんでした。ただ、断って、記録して、事実を話して、自分の仕事を続けただけです。攻撃してきた側は、勝手に金を使い、勝手に評判を落とし、勝手に潰れていきました。第1話の彼女も、第2話の姉も、同じでした。争わない人は、相手の土俵に上がらないので、負ける場所がないのです。
もし今、あなたが理由のわからない妨害を受けているなら。断ってください。記録してください。そして、あなたの仕事を、普通に続けてください。それが、いちばん確実に効きます。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
人間関係・ビジネスのお悩み、二択のご相談は 人間関係コンサルティングへ。一人で戦わせません。







