加害の引き金は「相手の成績」ではなく「相手が何かを欲しがっていること」だった。
小説で学ぶ、人間関係と心理学
第4話「悪運の強い女」
私は、彼女を「悪運の強い女」と呼んでいた。
何をしても死なない。何をしても、平気な顔で戻ってくる。だからそう呼ぶしかなかった。
——あれが運ではなかったと知ったのは、全部が終わったあとだ。
留学先で、私は先輩だった。
彼女は新入生。最初から英語が話せた。私が二年かけて手に入れたものを、あの子は最初から持って歩いてきた。
そして、最初の試験で、新入生の中で一番の成績を取った。成績優秀者に彼女の名前が掲載されている。
教授たちの目の色が変わった。廊下で名前を呼ばれ、研究の話に誘われ、あの子は入学して数か月で、この大学の「特別な子」になった。
——それでも、私は平気だった。
これは本当だ。私には車があった。英語も話せる。学年も上。それに、美人だと言われて育った。成績だけは、あの子に敵わない。でもそれは仕方のないことだと思っていたし、別に、気にする必要のないことだった。
私の人生には、私の持ち場があった。
そう、思っていたのだ。あのときまでは。
きっかけは、噂話だった。
あの子が、憧れている男がいるらしい。
見に行ってみると、確かに、見た目のいい男だった。テレビCMに出たことがあるという。留学生の間では有名で、廊下を歩けば女の子たちが振り返る、そういう男だった。
そのとき私の中で動いたものを、正確に説明するのは難しい。
欲しい、とは思わなかった。誓ってもいい。私はあの男が欲しかったのではない。
あの子が欲しがっているものが、そこにあった。
それだけだった。
私は猛烈にアピールした。車を出し、英語で笑わせ、先輩として振る舞い、あらゆるものを使った。私が本気を出せば、たいていのものは手に入る。二か月で、彼は私のものになった。
ただ、その過程で、一つだけ細工をした。
彼は、あの子を尊敬していた。ほんの少し、気に入ってもいたと思う。それが目障りだった。
彼は日本語が分からない。
だから私は、ゲームだと言って、あの子に電話をかけた。日本語のフレーズを、彼に読み上げさせるゲーム。彼は面白がって、私の書いた文字を、たどたどしく声に出した。
彼が言っているつもりだったのは、明日どこかへ行こう、という誘いの言葉だ。
実際に彼の口から出たのは——「おまえのことが、大嫌いだ」。
電話の向こうで、あの子は黙った。
彼は、意味を知らない。私が笑ったので、うまく言えたと思ったのだろう。彼も笑っていた。
その日から、あの子は彼を避けるようになった。当然だ。
そして彼は、自分が振られたのだと思い込んだ。
——だから、私と付き合うことになった。
うまくいった、と思った。
いま思えば、私はこのとき、自分の人生に爆弾を招き入れていた。
季節が過ぎて、あの子が初めて日本に帰る時期が来た。
私たちは、みんなで示し合わせた。
あの子に、嘘の情報を渡したのだ。空港までの行き方について。深夜三時にニューヨークのホテルを出て、地下鉄で向かうのが普通なのだと。
お金のない留学生なら、そうすることもあるかもしれない。理屈のうえでは、不可能ではない。ただ、そんなことは、誰もしない。
あの子は、信じた。
疑いもしなかった。留学したばかりの子が、先輩たちが口を揃えて言うことを、疑うわけがない。
深夜のニューヨークを、あの子は一人で歩いた。地下鉄に乗った。当時のあの街が、日本から来たばかりの女の子にとって何を意味するか——私たちは全員、知っていた。知っていて、笑って見送った。
後日、無事に空港に着いたと聞いた。
そのとき私が感じたのは、安堵ではなかった。
——ちっ、と思った。
悪運の強い女だ、と。
自分がいま何を考えたのか、その意味を考えることは、しなかった。考えたら、戻れなくなる場所に自分が立っていることを、認めなければならないから。
春が来て、今度は私が日本に帰る番になった。
同じ頃、あの子は有名大学への編入を決めていた。忙しそうにしていた。あの子はいつだって、私が何かを仕掛けている間に、勝手に先へ進んでいた。
そして、私の家で問題が起きた。
親が、病気になったのだ。まとまったお金が要った。私は、乗っていた車を売ることにした。
売却の手続きは、彼に頼んだ。
日本に帰って、振込を待った。
——お金は、来なかった。
一週間。二週間。連絡が取れなくなった。
おかしい。私は無理をしてアメリカに戻った。自分のアパートの鍵を開けて、そこで見たものは、空っぽの部屋だった。
彼の荷物は、一つもなかった。私の金も、どこにもなかった。
私は、騙されていた。
騙したつもりで、騙されていた。
——後から知ったことがある。
彼は、国を出る前に、あの子に会いに行っていたらしい。帰ることを報告して、爽やかな顔で、きちんと挨拶をして。
最後まで、あの子にだけは、まともな人間の顔をして。
私は、あの男を「あの子から何かを奪うための道具」として使った。道具は、私の手の中で、私を刺した。
当たり前だ。他人を騙す道具に選ばれる人間が、私だけは騙さないと、どうして思えたのだろう。
私は、壊れた。
お金も、彼も、車もなくして、私に残ったのは、あの子への憎しみだけだった。
私たちは、女の子たちで、あの子を囲んだ。有名大学に編入が決まった彼女が気に入らなかった。
それでも駄目だった。男の子たちが、あの子を守るのだ。何をしても、誰かが間に入る。
そして、おかしなことが起きた。
あの子が、一人でいる時間が、なくなったのだ。
私たちが囲めば囲むほど、誰かがあの子の隣にいるようになった。教室からの帰り道も、週末も、あの子は必ず誰かと一緒だった。
やがて、お金持ちの学生たちが、あの子のために車を出すようになった。
——私の車より、ずっと高級な車だった。
助手席にあの子を乗せて、その車が駐車場を出ていくのを、私は立って見ていた。
私が持っている唯一の武器で、あの子は送り迎えされていた。しかも、上等なやつで。
私たちがやったことは、あの子から何も奪えなかった。それどころか、あの子の周りに壁を作り、あの子の足を、良くしただけだった。
だから私は、卒業した先輩に話を持っていった。嘘を吹き込んだ。あの子について、事実ではないことを、いくつも。
そのときは、うまくいくと思った。
——起きたことは、逆だった。
アメリカ人の男の子たちが、あの子の側に立った。アジアの国の子たちも立った。そして最後には、私と一緒にあの子を囲んでいたはずの女の子たちまでが、あの子の側に回った。
一人ずつ、静かに、私の隣からいなくなった。
私は、そこで初めて理解した。
あの子には、味方がいた。
私が知らないところで、あの子は、全員に対して同じだったのだ。誰にでも礼儀正しく、誰の陰口も言わず、誰が困っていても手を貸していた。私が策を練っている一年の間、あの子はただ、まっすぐに生きていた。
——それが、貯金になっていたのだ。
私の嘘が届かなかったのは、あの子が守られていたからではない。
あの子が、守るに値する人間だと、みんなが自分の目で知っていたからだ。
私たちは、大学を追い出された。
あの子には、それきり会っていない。会えなくなった、と言うほうが正しい。学校はあの子を守り、あの子の周りには常に誰かがいて、私はもう、あの子の世界に入る資格を失っていた。
もう一つ、遅れて分かったことがある。
学校が、あの子を守った理由だ。
あの子には、価値があったのだ。新入生の中で一番の成績を取り、有名大学へ編入していく学生は、大学にとっての実績そのものだ。守るに決まっている。守らなければ、損をするのだから。
私はどうだ。
何の成績も出さない。何も生み出さない。誰にも、何も与えていない。そんな学生を守る理由が、どこにある。誰の得にもならない価値のない人間は、切っても痛くない。
私の取り柄は、見た目と、車だった。
それだけだった。数えてみると、本当にそれだけだったのだ。
車は、もうない。あの男が持っていった。
そして見た目は——これから、劣化していく一方だ。
私が持っていたものは全部、放っておけば勝手に減っていくものばかりだった。あの子が持っていたものは、放っておいても、勝手に増えていくものだった。
同じ時間が、あの子には味方をして、私からは奪っていく。最初から、そういうふうにできていた。
そういうことなのだ。
学力でも、技術でも、なんでもいい。人に何かを与えられる人間は、守られる。何も持たない人間は、いざというとき、誰の手も伸びてこない。
——今更、気がついても遅いけれど。
惨めな気分で、私は帰国した。
できることは、何もなかった。
いまでも、時々考える。
私は、彼女の成績には耐えられたのだ。あれは平気だった。本当に平気だった。
耐えられなかったのは——あの子が、何かを欲しがっていると知ったときだ。
あの子には、欲しいものがあった。夢があって、憧れがあって、その方向に、まっすぐ歩いていた。
私にはそれがなかった。
車も、英語も、顔も、友人も、全部持っていて、私には行きたい場所が一つもなかった。
だから私は、あの子の欲しいものを奪うことにしたのだ。それが、私が人生で唯一、本気で取り組んだことだった。
私は彼女を「悪運の強い女」と呼んでいた。
——あれは、運ではなかった。
あの子が、毎日、誰にでも誠実だったというだけの、それだけの話だった。
(第4話・了)
この物語から学べること
「親しくない先輩」の助言ほど、確かめてください。
- 移動・旅行・お金の「みんなそうしてる」は、必ず自分で裏を取ってください。 集団で口を揃えられると、新参者は疑えません。悪意は、親切な助言の顔をして運ばれます。一人でも外部の人に確認すれば、たいていの嘘は崩れます。
- 集団でのいじめは、加害者側の結束がいちばん脆いものです。 「みんな」で囲んでいるように見えても、その「みんな」はあなたを守るために集まったわけではありません。風向きが変われば、彼らは一人ずつ静かにいなくなります。物語で最後に加害者を見捨てたのは、味方だったはずの人たちです。
- 日々の誠実さは、見えないところで貯まっています。 あなたが誰にも意地悪をせず、誰の陰口も言わずに過ごしてきた時間は、無駄になっていません。いざというときに誰かがあなたの側に立つのは、運ではなく、あなたが積み上げたものです。
- そして、力を持つことは、身を守ることでもあります。 学力でも、技術でも、人に与えられるものを持っている人は、いざというとき、組織も人も守ろうとします。理不尽な環境にいるなら、なおのこと、学び続けてください。それは逃げ道であり、武器であり、あなたを守る盾になります。
- ただし——それは「何も持っていない人は守られなくていい」という意味では、決してありません。 物語の彼女が守られた本当の理由は、成績ではなく、日々の誠実さのほうでした。加害者は最後まで、そこだけは理解できませんでした。人を損得でしか測れない人間には、人が誠実さで動くことが、最後まで見えないのです。
- あなたが狙われる理由は、能力ではなく「持っているもの」ですらないかもしれません。 あなたが何かを本気で欲しがっていること、行きたい場所があること——それ自体が、空っぽの人にとっては耐えがたいのです。あなたのせいではありません。
- そして、人を陥れるために誰かを道具にした人は、その道具に刺されます。あなたが手を汚す必要は、ありません。
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