「俺の人生は、あの男が黙っていた三秒間で決まった」——加害の引き金が相手の悪意ではなく、自分の中の空洞であること
小説で学ぶ、人間関係と心理学 第3話「あと少しで、東大だった」
「俺、あと少しで東大だったんですよ」
この台詞を、俺は人生で何百回言っただろう。
嘘ではない。模試でいい判定が出たことは、確かにある。あの頃の俺は優秀な学生だった。先生にも期待されていた。このまま行けば——そう思っていた時期が、確かにあった。
ただ、本当のことを言えば。
俺は、知っていた。あと少しでは届かないことを。もう少し、あと少し、と思いたかっただけで、その差が埋まる種類のものではないことを、たぶん誰よりも自分が分かっていた。
分かっていて、それでも俺は、その話を何百回もした。
それが俺の、唯一の自慢話だったからだ。
いまの職場は、母の勤め先だった。
前の会社で、俺はいじめに遭った。理由は今でもよく分からない。ある日から誰も昼に誘わなくなり、俺の担当だけ資料が回ってこなくなり、そして俺は逃げた。逃げた先が、母のいるここだ。社長は俺の高校の同級生で、母は長く勤めている。だから俺は、多少のことなら大目に見てもらえた。自由にやらせてもらえた。
居心地は、悪くなかった。
実力で勝ち取った場所ではない、ということから目を逸らしていられる程度には。
その塾長と会ったのは、仕事の関係だった。
東大専門の塾を経営している男だった。俺と同じくらいの歳のはずなのに、まるで違う生き物に見えた。いい車に乗っていた。姿勢がよかった。喋り方に淀みがなかった。講師も、生徒も、保護者も、あの男を尊敬していた。あの塾に行くと、空気が違うのが分かった。あそこには、あの男が二十年かけて作った何かがあった。
俺には、それがなかった。
見た目も普通だ。もしかしなくても、大したことのない見た目。学歴も、経歴も、いま座っている椅子でさえ、母の縁故だ。
だから、いつものように、言ったのだ。
「実は俺、あと少しで東大だったんですよ」
いつもなら、ここで反応がある。「へえ、すごいですね」でも「もったいない」でもいい。俺はその一言のために、この台詞を何百回も言ってきた。
塾長は、黙っていた。
何も言わなかった。お世辞ひとつ、言わなかった。
——なに言ってんの、この人。
そういう顔をしていた。いや、そこまで露骨ではなかったかもしれない。ただ、あの男の目には、困惑があった。何と返せばいいのか分からない、という種類の困惑が。
俺は焦って、説明を始めた。当時の模試の判定を、記憶を辿って並べた。どの科目が良くて、どこであと少しだったかを。俺の三十年分の物語を、その場で全部、開いて見せた。
塾長は、最後まで黙って聞いていた。
そして、静かに、プロの意見を言った。
その成績では、受からない、と。
罵倒ではなかった。嘲笑でもなかった。あの男はただ、毎年何百人の受験生を見て、その道を実際に通ってきた人間として、事実を述べただけだ。悪意など、髪の毛一本分もなかった。
俺は、分かっていた。
分かっていたことを、初めて他人の口から言われた。
——悔しかった。
死ぬほど、悔しかった。
三十年かけて磨いてきた俺の唯一の宝物が、あの男の前では、一秒で「そういう成績の人」になった。あの男は俺を貶めてなどいない。ただ、俺の物語の中に、俺の居場所がないことを、知らずに証明しただけだ。
俺は、あの男が憎かった。
何もしていない、あの男が。
機会は、すぐに来た。
仕事の流れで、俺があの男から書類を預かることになったのだ。行政に出す種類の、まあまあ重要な書類だった。
俺は、それを受け取った。
そして、しばらくして、こう言った。
「書類? いや、受け取っていませんが」
あの男は、渡したと言った。日付も、場所も、覚えていた。当然だ。渡したのだから。
でも、証拠がなかった。
受領のサインも、記録も、メールも、何もなかった。人と人の信頼だけで手渡された紙には、渡した証明がどこにもなかった。あの男は怒り、何度も確認し、そして——何もできなかった。
俺は、鏡の前で笑ってみた。
うまく笑えなかった。
書類は結局、あの男が金を払って再取得し、手続きは事なきを得たらしい。損害は、大きくはない。俺があの男から奪えたのは、その程度のものだった。
預かった書類は、俺の手元に残った。
夜、机の引き出しからそれを出して、眺めることがあった。あの男の名前が印字された紙。これを持っている限り、俺はあの男に何かをした人間でいられる。
紙を見つめながら、俺が感じていたのは、勝利ではなかった。
惨めさだった。
三十年かけた自慢話を否定されて、俺がやり返せたことは、紙を一枚隠すことだけだった。それが俺の全部だった。
転機は、交差点だった。
いつもの道で、右折しようとしたとき、自転車の高校生が飛び出してきた。
間に合った。ぎりぎりで、間に合った。
止まった車の中で、俺の手は震えていた。ハンドルを握れないほど震えていた。当たっていたら。あの子が飛んでいたら。俺は——犯罪者になっていた。
そのとき、なぜか、社長の言葉が頭に浮かんだ。
「人に嫌がらせした人間には、必ず罰が当たるんだよ」
同級生の社長が、いつだったか、何気なく言った言葉だ。そのときは笑って聞いていた。
俺は、あの引き出しの紙を思い出した。
やばい、と思った。
理屈ではなかった。信心深いわけでもない。ただ、あの震える手のまま、俺は確信してしまったのだ。俺はいま、罰の入り口に立っている。
俺は、書類を返すことにした。
後日、警察から連絡が来た。
あの男は、通報していたのだ。俺が返すより前に。当然だ。何か月も前に渡した書類を、いまさら「見つかりました」と持ってくる人間がいたら、誰だってそう動く。
そして、返したことで、逆に全部が確定した。
一度は受け取ったのに、受け取っていないと嘘をついた——その事実が、返却という行為そのものによって、証明されてしまった。俺は最後まで、自分で自分の首を絞める側の人間だった。
社内での俺の評判は、それで終わった。
誰も、俺を責めなかった。ただ、静かに扱いが変わった。回ってくる仕事が減り、会議で意見を求められなくなり、昼に誘われなくなった。
前の会社と、同じだった。
俺は、逃げてきた場所で、同じ景色を、今度は自分の手で作り上げていた。
母は、俺を馬鹿にするようになった。息子を庇うのに、疲れたのだろう。「あんたは昔から」で始まる小言を、俺は毎晩聞いた。
そして、話はそこで終わらなかった。
俺の一件をきっかけに、会社が調べられた。埃は、出た。所長の学歴が、経歴書と違っていたのだ。
先代が興した事務所が、荒れた。
社名を変えた。顧客は減った。「あそこは」という囁きが、静かに、確実に、俺たちの周りから仕事を奪っていった。あの活気は、二度と戻らなかった。俺一人の嘘が、先代の看板を倒した。
俺は、いま、まだあの会社にいる。
もう年だ。転職はできない。この歳で、この経歴で、俺を欲しがる場所はない。惨めな気分で、毎日、机に向かっている。
あの塾長は、いまも同じ場所で塾をやっている。
俺のことなど、たぶん、覚えていない。
俺の人生は、あの男が黙っていた三秒間で、決まった。
あの男は、俺を攻撃したことは一度もない。ただ、お世辞を言わなかっただけだ。
俺が壊されたのは、あの三秒の沈黙で、俺の三十年が本当は何だったのかを、俺自身が知ってしまったからだ。
そしてそれを、あの男のせいにした日から、俺の転落は始まった。
「俺、あと少しで東大だったんですよ」
——もう、誰にも言っていない。
(第3話・了)
この物語から学べること
あなたが何もしていなくても、恨まれることがあります。
- 加害の引き金は、攻撃とはかぎりません。お世辞を言わなかっただけ、正直に答えただけ、無反応だっただけ——それで恨まれることが、現実にあります。「私が何かしたのだろうか」と自分を責める必要はありません。相手が壊れたのは、あなたに映った自分の姿を見たからです。
- 実力ではなく縁故や立場で守られている人ほど、他人の実力に耐えられません。土台が自分の中にないからです。
- 重要な書類やお金は、必ず受け渡しの記録を残してください。 サイン、メール、写真——どれでも構いません。信頼できる相手だから記録は不要、ではありません。記録は、疑うためではなく、あとで誰も傷つかないためのものです。物語の彼が何もできなかったのは、記録がなかったからだけです。
- 嫌がらせを受けたら、感情で追及するより、証拠を集めて、然るべき機関に淡々と届け出てください。物語の彼が最後に勝ったのは、怒鳴ったからではなく、通報したからです。
- そして——加害は、たいてい加害者自身を壊します。あなたが手を汚す必要は、ありません。
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